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「なんであなたの太陽だけ茶色いの!」
小学3年の春。先生が私の絵を見て言い放ったその言葉は、今でも忘れられない。
茨城県の片田舎に生まれ育った私は、何不自由なく育てられてきた。優しい両親に加えて、甘えたがりの弟。欲しいものがあれば、何でも買ってくれたように思う。
幼期は明るい性格だったようで、小学2年生までは、いつもクラスの輪の中心にいた。
そんな私の運命を変えたのが冒頭の出来事だ。
その日の授業は写生。近所の風景と人物を描くというもので、担任先生が変わって初めての授業ということもあり、いつも以上に気合を入れて臨んだことを覚えている。
しかし完成した作品を見た途端、先生の顔はみるみる引きつり、そして怒鳴った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
みんなと同じように描けない。そんな申し訳なさから、涙が止まらなかった。
その絵は他にも、色の使い方がおかしかったらしい。
そんな私が色盲と疑われるのは当然のことだった。すぐに学校から連絡がいき、母親に病院へ連れていかれることに。
検査した日の夜のことは今でも鮮明に覚えている。年の離れた弟を寝かしつけた両親は、私を居間に呼び出し、今にも泣きそうな声でこう言った。
「お前は色盲と呼ばれる病気なんだよ。だから気を付けて生きていかないといけないんだよ」
今の時代なら、もっと幼い時期に、全児に対しその手の検査が行われるのだろうが、当時は昭和の真っ只中、それまで色覚検査など一度も受けたことがなかった。
両親も私もまったく異常に気付かず暮らしてきたのだ。
でも言われてみれば、これまでにも不可解な現象は起こっていた気がする。
靴下はよく履き間違えたし、歯ブラシや傘を弟のモノと間違えて、何度も注意された。
小1のとき、クラスでピクニックに出かけたときもそうだった。
公園の芝生で、友達がみんなして寝転がって遊んでいたが、ナニが楽しいのかサッパリわからなかったのだ。芝の上を歩くことすら嫌でしょうがなかった(芝生はフツーの人間でいう茶色に見えてしまうから)。
また、私が大のつく偏食家だったのも、食べ物を不快な色として認識してたからかもしれない。サラダなんかは食えたもんじゃなかった(茶色に見える)し、焼肉は焼ける前も後もどちらも同じ色に見えてしまうもんだから、何度も生焼けで食べては吐き出したりしていた。
すべて色盲のせいだったのだ。
色盲は大きく分けて「赤緑色盲」と「青黄色盲」に分かれ、私は前者。中でも、緑系統の色が極端に識別できない「強度緑色盲」だった。
つまり私には、赤色と緑色の両方がまったくわからず、ピンクや紫、そしてオレンジといった色も、存在しないのだ。
白と黒だけの世界に逃げ込みたかったから
自分が見ている景色は周りと違う。9才にして突きつけられたこの事実は、子供ながらにとてもショックなものだった。色がわからないとどうなるんだろう。将来への漠然とした不安を抱えた私は、劣等感から、だんだんと休み時間を図書館で過ごすように。
この時期、やたらと本にのめり込んでいったのも、今思えば、紙とインク、白と黒だけの世界に逃げ込みたかったからかもしれない。
中学、高校と学年が上がるにつれて、色盲による劣等感はより大きくなっていった。まず黒板の色文字が見えなかった。特にピンクや青と呼ばれる色になるとお手上げだ。
小学ならばまだ許されたが、中学、高校ではそうはいかない。成績はみるみる落ちていった。
頭を悩ませたのが化学の実験だった。たいてい実験の後は結果、そして考察をレポートしなければ
ならない。
しかし、変化した色がわからない私にとっては、そんなもの書けるハズがなかった。
勉強で恥をかくこともコンプレックスを強めた一因だが、一番に私を追い詰めたのは、周りの人間の扱いだった。
朝、起きてから寝るまで、色盲の人間というのは、どうしても一挙手一投足が遅くなってしまう。五感の一つが欠損しているのだから当たり前だ。
周りと同じように生活しているつもりでも、フツーの人間よりもワンテンポ遅れてしまう。そんな私がイジメの標的とされるのは時間の問題だった。
「アホ」「ノロマ」「脳タリン」
自分ではどうしようもできないことなのに、心無い声が容赦なく浴びせられた。先生にすら言われるんだから、もう何もかも嫌になった。
結局、耐えきれず、高校を2年で中退。自分がミジメでしょうがなかった。
高校を辞めて3年。行くアテもなく、フラフラと毎日を過ごしていた私も、両親に就職しろと口酸っぱく言われるように。
ここは茨城の片田舎。正社員として働くには、車の免許が不可欠だ。でも私は重度の色盲。教習所の色覚検査で間違いなく弾かれるだろう。そんな半分あきらめモードの私にとって、数少ない知人の話は耳を疑うものだった。
なんでも、他県は「石原式」と呼ばれるガチガチの色覚検査を行うのに対し、茨城県は3色鉛筆の色さえわかれば受かるというのだ。免許の更新時も、なぜか茨城に至っては、検査すら行われないのだ
という。
これって色盲でも免許を取れるチャンスでは?
私はすぐさま市販の色鉛筆を購入し、徹底的に訓練した。赤、青、黄。こんな簡単な色分けでも、私にとってはムズカしい。
一週間もの間、鉛筆とにらめっこを続け、入校試験を受けることとなった。
当日。色覚検査は知人の話どおり、3色鉛筆で行われた。教官が言った色を指させばいいだけだ。
「はい。じゃあ青は?」
「これです」
少しでも迷うと色盲だと疑われかねない。あくまで平然を装って答えていく。
「じゃあ、赤は?」
「…これです」
「最後に、黄色は?」
「これ…です…」
「うーん…まあ大丈夫か」
途中で怪しまれはしたが、なんとか合格。こうして教習所に入校できた。
しかしホッとしたのも束の間。問題がもう一つ浮上した。それは信号機の色だ。赤、青、黄。文字だけだと、前回の色鉛筆と同じように感じるが、実際はまったくの別モノだった。
特に黄色と赤。この2つは、フツーの人間でいう茶色に見えるため、非常に厄介だったのだ。
一度でも判断を見誤ると、免許どころではなく、人の命すら奪いかねない。そんな信号機に対し、私が対策したことは主に2つだ。
一つ目は、3色の順番自体を覚えること。そして二つ目は、色ではなく、光り方。つまり明るさで区別しようというものだ。
それからは猛特訓の日々だった。近所に出かけては、信号機を見る毎日。角度や距離を何度も変えて
は、順番と明るさを、頭の中にしみ込ませていく。回数を重ねるごとに、赤色と黄色、つまり私にとっての茶色にも、明るさの違いがあることに気づいてきた。
その甲斐あってか、時間は人より数倍かかったものの、色盲と気づかれることなく教習所を卒業。
念願の免許を手に入れたのだ。
しかし現場の運転となると、勝手は違う。親の車を借り、夜道を走っていたときのことだ。突然目の前に現れたその信号は、これまで一度も見たことのないものだった。
タテに光る謎の物体。それは工事中に設置される二色信号だった。色の順番は知らないし、メーカーが違うのか、明るさでも区別しようがない。恐るおそるハンドルを右に切ったその瞬間だった。
「ファァァァァァン」
対向車のトラックが猛然としたスピードで突っ込んできたのだ。咄嗟にハンドルを左に回したことで、間一髪で接触は避けられたが、場合によっては死んでいたかと思うと、今でも冷や汗が出る。
ツライ思いを子供や孫にはしてほしくない
無事に正社員として働きだしたが、ここでも色盲という病気は私を苦しめた。
当時はまだ紙の時代。事務仕事では、様々な書類を色ごとに仕分けする必要があったのだ。
フツーの人間にとっては簡単な仕事も、私にとっては色が絡むと一気にハードルが上がる。
たちまち社内ではお荷物キャラとして嘲笑の的となった。ミスをする度に周りからはクスクスと笑い声が響き渡る。
そんな私に仕事が長続きするハズがなかった。
「自分の居場所はここではない…」
そんなことを思いながら、転職を続けること数十回。だんだんと面接にも通らなくなっていった。
そんなどうしようもない私にも、当時、彼女がいた。もちろんデートで様々な場所に出かけたが、どれも本心では楽しめなかった。お花見に行った際もそうだ。
「すご~い、キレイだねぇ」
「うん、そうだね」
口ではこう言うものの、正直ナニがいいのかサッパリだった。桜の色は、私にとってはフツーの人間がいうところの薄い藍色に見える。そこらへんの植物となんら変わらない。
紅葉狩りも同じだ。なんせ私にとっては全てが変わり映えのしない茶色。情緒なんて感じることはできなかった。しかし、そんな四季折々の風情もわからない私に、彼女は優しく寄り添ってくれた。唯一の心の支えだったかもしれない。
当時は28才。そろそろお互いの将来も考える年頃だ。
しかし、結婚するとなると話は変わった。実はこの病気「赤緑色盲」は遺伝するのだ。
事実、私も祖父からの遺伝によって引き継いだと聞いている。結婚して子供を作るとなると、遺伝する可能性が極めて高いということだ。
「自分のようなツライ思いを子供や孫にはしてほしくない」
正直な思いを打ち明けた。長い沈黙の後、彼女は一言だけ口を開いた。
「うん。話してくれてありがとう」
ほどなくして、彼女は私の元から去っていった。
他人のことをいちいち詮索してこない
仕事は見つからず女も失う。そうなると落ちるのは早い。起きたら酒を飲み、パチ屋に行っては金を溶かす日々だった。パチンコにハマったのはその手軽さにあった。色がわからない私にとって、スロットの目押しは難しい。その点、パチンコはレバーを回しているだけでゲームが勝手に進むから簡単だったのだ。
こんな生活をしていると、金が尽きるのも時間の問題。だんだんとその日の金にも困るようになっていった。
そうして30才のとき流れ着いたのが、日雇いのメッカ。高田馬場だった。
当時は700~900人もの労働者が押し寄せたこの場所。初めて訪れたときのことは今でも覚えている。
早朝の駅前ロータリーには、朝から酒を流し込む者、タバコを吸いながら競馬新聞を読む者など、これまで感じたことのない雰囲気が漂っていた。
右も左もわからず、茫然と立ち尽くしていると、そんな私の様子を感じ取ったのか、近くで酒盛りをしているオッサンが近づいてきた。
「よぉ、兄ちゃん。仕事でも探しにきたんかい?」
「え、まぁ、はい…」
「じゃあ俺についてこい。イイとこ教えたげるよ」
駅から徒歩10分ほどの西戸山公園に連れていかれた。求人票が無造作に貼られたボードの前には、いかにもといった身なりの男たちが列をなしている。
「ここまで自分は落ちたのか…」
こうして初めて仕事をしたのが、土木現場での鉄板掃除だった。要は残土を掃除するだけのこの仕事。これまでやっていた事務仕事や営業なんかに比べると、遥かにラクだった。
単純作業のため、何も考えなくていいということもある。
しかし、一番の理由はその気楽さにあった。日雇いの人間は、他人のことをいちいち詮索してこない。どこ出身だとか、何してただとか、そういった他人のバックグラウンドには興味がないのだ。
色盲でこれまでずっと劣等感に苛まれてきた私にとっては、この世界は溶け込みやすいものだった。
素性も知らない人間と汗を流して、酒を飲みかわす。そんな一日を送るうちに、日雇いという環境は居心地のイイ場所に変わっていった。
こうして私は週4日。年間220日もの間、日雇いとして働くこととなった。
しかし、ここでも色盲という病気に苦しめられた。
とりわけ苦労したのが、インサートと呼ばれるネジをはめ込む仕事だ。天井に吊り下げるボルトを取り付けるためのこの作業。
現場によっては数十種類ものネジがあるのだが、その全てが色分けされているのだ。
フツーの人間にとっては、むしろ簡単な部類の作業だろうが、私にとってそれは困難を極めるものだった。
「ネジすらできないアホは要らねえんだよ! 帰れ!」
現場監督の言い分はもっともだった。その他にも私は、色分けされた部品やスイッチを押す作業にはめっぽう弱かった。
サーモンピンクのマンコってどんなのなんだろう
そんな現場でも助けてくれたのが日雇い仲間だった。一緒に作業する人たちは、私が困っているといつも手を差し伸べてくれた。
そんな日雇い労働者たちにとっての金の使い道。それは酒・女・パチンコくらいなものだ。
その中でも当時、とりわけ話題に上がっていたのが、大久保の立ちんぼ売春婦だった。
プレイ内容もさることながら、特にマンコの色の話になると、彼らは中学のようにハシャぎだす。
「昨日ヤッた女はマンコが汚かったからハズレだなぁ」
「いやいや、俺のオキニはマジでキレイだぜ」
酒の席では、ほぼ毎回といっていいほどこんな議論が交わされていたように思う。中でも、サーモンピンク。この色のマンコがキレイだと言われていたが、そもそもピンクが一般で言う「青」に見える私にとっては蚊帳の外だ。
しかし私もいっぱしの男。女と一戦交えたい日は訪れる。そんなときはフラッと大久保に足を運び、立ちんぼを買ってみたこともあった。しかし居酒屋で話題に上がる、マンコの綺麗な女、汚い女。両方とセックスしたところで、その色の違いはまったくわからなかった。
サーモンピンクのマンコってどんなのなんだろう。一度でいいから見てみたいものだ。
赤が赤に見える彼と、赤が赤に見えない自分
日雇いを始めてから5年。仕事にもだんだんと慣れてきたころだ。
いつものように現場で汗を流した後、新宿をフラッと歩いていると、後ろから聞き馴染みのある声が聞こえた。
「あれ? もしかして一郎か?」
その声の主は、小学のころからの唯一の友人だった。
最後に会ったのは地元の成人式だから、約15年振りの再会だ。
「え? まぁ、うん」
「やっぱりそうだった! 今ヒマか? 軽く一杯どう?」
誘われるがまま、近くの居酒屋に入ると、すぐさま話題は近況報告へと移った。
「一郎は何の仕事してるの?」
「え? まあ、建設関係かな」
「へぇ、すごいじゃんか! 俺なんてタダの営業マンだよ」
聞くと彼、大手不動産会社に勤め、30才で結婚。子宝にも恵まれ、最近マイホームを買ったのだとい
う。うんうんと相槌を打つたびに、なんだか悔しさがこみ上げてきた。
いわゆるフツーの人生。フツーの会社に勤めて、フツーの家庭を築く。色盲のせいで、そんなチャンスすらも与えられなかった自分には、羨ましくてしょうがなかった。運命が憎かった。赤が赤に見える彼と、赤が赤に見えない自分。
2人の人生を分けたのは、ただそれだけの差だったのかもしれないのにと。
★現在、私は65才。日雇いの世界にたどり着いてから35年の月日が経とうとしている。
ピーク時には1千人を超えると言われた高田馬場の日雇い労働者も、現在は私を含めて30人ほど。
そんな中でも、続けてこれたのにはワケがある。30年前、ある現場での同僚の一言だった。
「あんたと仕事すると楽しいよ。ありがとうな」
生きてきて一番幸せなことだった。9才で色盲と言われ、ずっと苦しんできた私にとって、誰かに感謝されることは初めての経験だった。
色はわからなくてもなんとかなるこの世界で、私はこれからも生きていく。
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